9年後の帰郷

29歳のゴールデンウィーク初日、東京の実家を出てベトナム・ホーチミン市に向かってからはや9年の月日が流れた。2020年以来、世界中で猛威を奮ったCOVID-19の影響で東京へ戻ることができないままベトナムでロックダウンを経験しつつ2年以上の月日が流れ、やっと隔離はあるものの行き来ができるようになり、そろそろ東京に行けるなと思っていた矢先、旧正月の直前に姉から母が倒れたとメッセージが送られてきた。

父は僕が6歳のときに事故で急遽した。
まだ40代前半だった母は僕と姉の生活を考えてそのまま、僕の祖母であり母にとっての姑と一緒に東京の父の実家でそのまま暮らすことを決めて祖母が亡くなるまで20年ちょっとの日々を非常に癖と我の強い姑と過ごしながら、なんとかかんとか一人で家計を担って子供二人を育て上げた。当の子である我々が立派に育ったと言えるのかどうかは正直わからないが、ふたりとも前科もなく一応勤め人として生きることができている。

独身時代は保育士だった母は子が生まれてからは退職して専業主婦になり、ほぼ無職みたいなものだった父親が亡くなったあと保育士に戻ってもその収入では生活が成り立たないので兄弟や親戚を頼っていろいろな仕事を手伝ったり、兄弟と一緒に自分で小さなビジネスを立ち上げたりして大変な苦労をしながらも家族に大きな不便を感じさせることなくなんとか育ててくれた。

今思えば金銭的に大きな余裕のある生活ではなかったが、しかし貧乏だと思うこともあまりなかったし子供のころにお金で大きな不自由をした。という感覚もなかった。このことは自分で稼いで暮らすようになった、大人になった今だからこそ改めて驚きとともに母の苦労を思うことが増えた。

10代の頃は色々と問題の多い息子の僕ではあったがなんとか就職した会社がベトナムに子会社を立ち上げた関係でちょこちょこと数日、長くても一週間程度の出張で行っていたが、9年前のある日新しい事業の立ち上げでベトナム行きを打診され「今回は半年くらいはいることになるのかなぁ〜」などと思いながらバックパック一個で渡航し、気がついたら9年が経っていた。

ベトナムへ飛び立つ1週間くらい前に
「ちょっとベトナム行ってくるわ〜」
母:今回は何日くらいなの〜?
「半年くらいかなぁ〜」
母:あら、今回は長いわね〜
なんて雑なやり取りだけで家を出て、次にちゃんと実家に顔を出したのはその2年後、しかも2泊程度の一時帰国だった。(その間に母は姉と一緒にベトナムを訪ねて来た)

ここ数年間は頻繁に「お前はもう東京には帰ってこないのか?」と不安そうにしている母に「未来は誰にもわからないが、今の自分にとって東京で働き、暮らすことは難しいと感じる」と答えてはいつも寂しそうな顔をさせていた。今思えばとんでもない親不孝な息子だった。

僕と姉が自立し、頑張って働く必要のなくなった母は自分達でやっていた仕事を畳み、元々若い頃にやっていた保育士の仕事を週に4日程度だけ再開し楽しそうに働き、休みの日は今はもう亡くなった老犬と一緒にリビングでゴロゴロしながらTVを見ている隠居生活。暇を持て余しながらも平和に過ごせているようにおもっていた。
しかし、一緒に暮らしている姉、近所に済む親戚の叔母、そしてある年に一時帰国した僕が日々の会話の中で感じるその違和感が次第に大きくなっていき、そして姉が連れて行った病院で母は若年性アルツハイマーの診断を受けた。

元々少しボケた感じの人で物事はすぐ忘れちゃうし、思い込みの激しいところがあったからその延長線上にいる感じの最初の数年間は大きな違和感はなく、たまに一時帰国した時にも同じ話を延々としていて「めんどくせぇなぁ」と思うくらいのものだった。

しかし、診断から数年経ち犬を亡くし、仕事を辞めた矢先にCOVID-19が始まり人と会えず家で何もせず過ごす日々で症状は一気に悪化。一緒に暮らしていた姉からたまに届く近況報告で物忘れだけでなく激しい妄想に取りつかれるなどの報告がふえていき不安で悲しい気持ちになり、なかなか東京へ行けない日々に多少やきもきはしつつも僕はどこか楽観的に過ごしていた。

やっと日本とベトナムの国境が開き往来ができそうな様子がでてきて、春〜初夏くらいには一時帰国をしようかなぁと考えながらも連休に向けて仕事の片付けに追われていた2022年の旧正月直前、姉から母が倒れて病院に搬送されたと報告があった。そして検査の結果は膵臓がん ステージ4、すでに肝臓やあちこちに転移をしていて手の施しようがない。との診断を受けた。

その時は感染症を併発して高熱を出して意識も朦朧としていて、本当にいつことがおきてもおかしくないということだったので急いでPCR検査を受け、航空券を取り、入国条件などを調べて東京へ飛んだ。当時は入国後の隔離が義務付けられていたので姉に空港まで迎えに来てもらって車で実家へ行き、今は何も起きないでくれと祈りながら1週間の隔離の日々を過ごした。

その間に一旦合併症を起こしていた感染症は落ち着きを見せとりあえず緊急の状況は脱したようだったが、ではあと何ヶ月生きられるのか?と聞いたところで医師も応えられる状況ではなく、またCOVID-19真っ只中の病院では面会の受け入れもしていなかったのでせっかく東京に来ていたのに実際に会うことは一度もできずいつかチャンスがあって会えるかもしれないという希望にかけてあまり出かけず家で待機する日々を過ごした。

入院中に軽症だったもののコロナにも感染したことで数日間隔離されアルツハイマーの症状は劇的に悪化、毎日何回もあちこちに電話をかけ続け「誰か悪い人に閉じ込められている。助けてくれ」と訴えていた母も一旦は症状が落ち着いたので病院ではなくがん患者対応の高齢者施設に移ることが決まり、医師のはからいで移転の合間に2日間だけ自宅に帰ることができるようにしてくれた。
退院の手続きで向かった病院で3年ぶりに会うことができた母は目がうつろで小さく、まるまると太っていた身体は一気に痩せて細くなり、見栄っ張りでそれなりに身なりに気をつけていた母の髪の毛が伸びっぱなしでバサバサであることに大変なショックを受けたが、家族のことは認識できている状態だったので割と難しいことはなく車に乗せて家に連れ帰った。
翌日、近所に住む親戚達が子供を連れて遊びに来てくれて、小さな子供が好きなのに孫を抱くことのできなかった母はとても嬉しそうにニコニコと集まったみんなに楽しそうに同じことを繰り返し話していた。

自宅にいる間は階段を自分で登ることもできず、会話もまともに成り立たず、薬が切れるとお腹が痛くて眠れなくなり、体調の不良からくる得体のしれない不安が襲ってきて夜中に起きてしまうのでいつもTVを見ながら寝落ちしていたリビングのソファに寝かせて、夜中まで何度も寝ようとしては起きて不安を訴える母に「ここにいるよ〜」と声を掛けながら様子を見てから寝る、という2日間を過ごした。

これが母が家で過ごせる、僕らが母と過ごせる最後の日となった。

施設へ入所する朝、車にTVや生活道具、着替えなんかを詰め込んで施設に連れて行ったが施設についてからも自分の状況が理解できず、しかし自分がおいていかれることをなんとなく感じて不安そうな顔で「どこに行くんだ」「なんで置いていくんだ」「いつ迎えに来るんだ、会いに来るんだ」と訴え続ける母を施設に置いて僕らは施設をあとにした。駐車場に面した自分の部屋の窓から車に乗り込む僕らに向かって「次はいつ来るんだ、自分はいつ帰れるんだ」と不安そうに聞いてきた母に「すぐに会いに来るよ、病気が治ったら帰れるからまずは治療しようね」と僕らは最後に嘘をついて罪悪感を抱えて帰路についた。

入所後は再び面会ができない日々が続き、一度も面会ができないまま一旦ベトナムに帰った。

なんとなく 残された時間はあと数ヶ月だろうか、夏〜秋くらいにもう一度日本へ行こう。きっとそれが最後になるんだろう。 なんてぼんやりと考えながらも仕事でもいろいろな事が起きて2ヶ月ほどバタバタとした忙しい日々を過ごしていた。そして姉からまたメッセージを受け取ったその場ですぐ航空券を取って翌日東京へと戻った。

今年の1月、たまたま、ホーチミン市が主催する地域向けのワクチン接種を前日に大家さんが教えてくれて早く起きれたので期待せずに行ったら3回目のワクチンが打てた。そして、ホーチミン市でのワクチン摂取では種類がランダムに割り当てられ確率はアストラゼネカ製が圧倒的に高いなかでファイザーだった。2022年6月時点でのベトナムから日本への入国条件として3回目のワクチンをファイザー製かモデルナ製で打った人間に限って隔離なしを認めていたので隔離をせず入国することができた。

隔離が不要だったので入国した翌日に母の施設の面会予約を取って向かうことができた。30分間の面会時間の間、母は大きないびきをかいて眠っていた。
声を掛けても起きることはなく話す事はできなかったが、顔色もおもったよりよくそんなにすぐどうにかなるような人には見えないな。と少し安心して「また来週会いに来るわ」と一言残して帰宅した。

その二日後の早朝、母は寝たまま起きることなく静かに息を引き取ったと施設から連絡が入った。74歳、最初の診断から5ヶ月後のことだった。