どうやって片付けるのか

駄々をこねながら生きている。

イヤだイヤだと毎日、毎日、性懲りもなく駄々をこねている。

何がイヤなのかという話もしたくない。何もかもがめんどうでめんどうでしかたがない。

日常には大してドラマチックなことは起きない。かと思いきやドラマチックなんてきれいな響きの言葉では表現しがたい厳しい現実が常に目の前に居座っている。日々、小さな絶望が積み重なる。積み上がるよりも遥かに遅いスピードで毎日毎分毎秒すこしずつ、だるま落としのように小さなそれを必死な思いで一段また一段と落としながらなんとかかんとか日々を消化する。

ほんとうに救いがないのかといえばそうではない。問題は救いがあるのかどうかではなく日々小さな絶望が積み上がることそのものだ。その小ささたるや言葉にすれば明後日には笑い飛ばせるくらい信じられないほどしようもないものばかりだ。

大厄をすり抜け、とっちらかった青年期の後片付けのような後厄も終えた。人生と仕事に大きな転換も起こり、しかし仕事はなんだかうまくいかない。なんだかうまくいかないのにずっと目的もなく日々はダラダラと続く。乾ききって霞んだ目を細めて前を見つめても、必死で積み上げてきた小さな小さな自信が絶望と一緒に崩れ落ちていくような光景がぼんやりと広がっている。しかしまるで他人事のようだ。

SNSを覗き込むと東南アジアで暮らし、東南アジアで家族を持った自分では見るのがつらい言動が嫌でも目に入るようになり、行きどころのない思いが頭を巡るので見るのをやめた。"気持ちはわかる"と"さすがに乱暴すぎる"のせめぎあいだ。

なぜこうも、話が違ってしまうのだろう。

人は何かを理解し判断するときにコンテクストを持つ。そのコンテクストは人生の中で受け取ってきた色々なフィードバックに対して「素直な受け入れ」と「うるせえ馬鹿野郎」をどこでどう決着させてきたのかで決まる。同じ国で生まれ育った人がなんでもかんでも同じコンテクストを共有できているわけではない。

私は「どこの人間か?」と聞かれればひとつの疑いもなく「日本人だ」と答えるだろう。しかし「日本人とはなにか?」と聞かれたときにどう答えればいいのかがわからない。何をもって「わたしは日本人だ」と思うべきか。Ernest Renanはそれを「共有された記憶と、忘却」であるとした。ナショナリズムなんていう、曖昧な想像の共同体に支えられた感情は気に食わない人間をたたきのめすための武器として振り回すには、あまりにも脆い。

日々積み上がる絶望をどうやって乗り越えるのか。気づいてしまえばその場で絶命してしまうほどにまで積み上がってしまうそれを、つねに肌が触れ、呼吸を感じるほどの距離で感じているそれをどのように片付けるのか。なぜ人は理解しきれないほどの距離にいる他人を敵としなければ生きていくことができないのか。

好きな人を増やすより、嫌いな人を増やすほうがはるかにかんたんだ。