2013年、私が特になんの思い入れもないベトナムへ特に目的などもなくふんわりと移住した年にオープンした小さなバーがあった。
週末にはDJなどが入るが、いわゆるクラブというほどでもない今で言えばミュージックバー的なもの、イベントのない日はちょっとおしゃれで居心地の良いバーで普段使いでよく行っていた。

これが私とその後「東南アジアの魔窟」と呼ばれるようになったThe Observatoryとの出会いだった。
そこではHIBIYA LINEというDJがよく出演をしているのをフライヤーで見かけていた。なんとなく「日本人なのかなぁ〜?」と思っていた。彼が店のオーナー"Dan”だった。
後でDanになんでそのDJネームなのかを聞いたら彼自身はまったく日本とは関係がなく「Danという名前のDJが複数人いたから、DJネームを考えないといけなくて好きな日本の地下鉄の名前を取ったんだよね。アンダーグラウンドだから地下鉄w」と言っていた。
一度、日本のBASED ON KYOTOが来る!と知ってライブを見に行った。本当にかっこよかったし、当時まだ「カルチャー」が育っておらずあまり質の良いパーティのなかった街での暮らしの大きな救いとなった。
その後、そのバーは移転し4区という少し街の中心から離れたエリアの倉庫街に大きなクラブを作った。
運河沿いの薄暗い倉庫街に入り、初めて連れて行かれたら「え、俺、拉致されてない?」と疑ってしまうようなまるで廃墟の建物に入った最深部、小さな暗い階段を上った2階にその移転先のクラブはできていた。

この箱に、僕らはハマった。そりゃもうとんでもなくハマった。だって他にまともなテクノやハウスがレギュラーで流れる箱はなかったのだ。しかも店の雰囲気はとても最高だった。
その閉じた入口、スモークの焚かれた暗い店内、インダストリアルな雰囲気ながらところどころにある観葉植物がトロピカル感を醸し出し、広さの割に多少入り組んだ作りでソファなんかもあってくだらない話をすることもよくあった。そしてテラスからはDJをBGMにタバコを吸いながら運河を渡る船を眺めることができた。
僕らは何度も何度も、何度もそのテラスで朝日を迎えた。
文字通り毎週、毎週通った。そして週を経るごとに客が増えていき、ワールドクラスのDJが出演し始めた。海外から遊びに来るパーティ野郎もたくさんいた。一部では「東南アジアの魔窟」だなんて呼ばれて、アングラ感のあるその雰囲気は本当に唯一無二の存在だった。
その頃には私もDJを始めてはいたが、ジャンル違いということもありそこで回すことはなかった。ただ狭い街のDJつながりで一部のレギュラー陣とも交流があり、よくしてもらってよく一緒にフロアやトイレでぶっ倒れて朝を迎えた。

その魔窟は数年続いたが立ち退きにあい再度閉店、しばらくイレギュラーで箱から持ち出したサウンドシステムやUREIのミキサーを東屋みたいなDJブースに設置して、街から遠く離れた大きな橋の下の砂漠のようなところで毎週末野外レイブみたいなパーティが繰り広げられていた時期があった。(1年くらいだったかな?)
これもまたすごい日々だった。多分この時期に特に仲良くなった奴らが多かったかもしれない。
野外レイブっぽさもあり謎の一体感があった。少し離れた位置の地べたに座り込み、ビールを飲みながらくだらない話をしては時々踊りに行く、なんて楽しみ方もした。いつも飲みすぎて毎度の帰り道はまるで冒険のようだった。

今ほど配車サービスが発達してなかった当時の感覚としては本当に遠かったのだ…。みんなベロベロの状態で朝になるとバイクを運転して帰っていたのも今考えるとすごい。
色々あってその砂漠パーティも終わり、しばらく間が空いた後に街の中心にあるビルの屋上にオープンするというアナウンスがあった。
オープン当初、そりゃあもう毎週通った。木曜夜に軽く行って、金曜〜土曜日は家にいるよりそこにいる時間のほうが長かったのではないか?というくらいいた。近くにあったもう一つのクラブLighthouse(これも近年閉店済み)と毎週末のようにはしごしていた。

当初は質素な作りであったが、そこには大きなテラスと真っ暗なクラブルームがあり、クラブルームで踊っていると朝日が差し込んでくるその光景が大好きだった。その後、何度かにわたる改装と防音のために窓は潰されてしまったが。
まだお客さんが少なかった頃から何度も一緒に朝日を迎えるなかで当時のレギュラー陣や常連とも仲良くなり、今でも仲良くしている奴らとの出会いやつながりを深める場にもなった。
何度かDJもさせてもらった。耳の肥えた客が多くて毎度とても緊張し、修行のような気持ちだった…。

私のベトナム生活において「この店・この場が私の生活を作った」と思える場所が2〜3個あるが、間違いなくその一つだろう。大げさでなく私の生活の30%くらいを占めていた。
今の奥さんと遊ぶようになった最初の週末に自分たちで主催するパーティがあり、朝まで飲み、DJをして、踊った。結婚パーティの夜も朝まで好きなDJと一緒にパーティをした。
コロナ禍で在住外国人がどんどん国外へ出ていってしまったときも、街に残っていたDJたちと毎週パーティをした。

私にとって「パーティとはなにか」の多くはThe Observatoryが教えてくれた。
最近は生活パターンも変わり、前ほど夜出歩けなくなり、以前ほど遊びに行けなくなったし、DJとしても数ヶ月に一回程度になってしまった。正直に言えば近年はワールドクラスのDJが毎週末のようにDJするようになり、少し手の届かない存在になったような寂しさもあった。
2026年10月31日、The Observatoryは最後のパーティを迎えた。私の大好きなDJたちがフィナーレに向かって最高の音楽と最高のフロアを作り続けていた。

金・土とたくさんの友人と会って思い出を話した。悲しいけれど、最後まで彼らは明るく楽しい「パーティ」をやっていた。最後の最後まで本当に良いパーティだった。

移住者としてこの街で長く暮らす中で、人とのつながりと音楽とのつながりを深めてくれた、私にとってとても大切な場所だった。
ありがとうDan、ありがとうThe Observatory。本当に楽しかった。あまりにも多すぎて両手で抱えきれないほどの量のキラキラしたモーメントがそこにはあった。
あなた達のおかげで縁もゆかりもなかったこの街で素晴らしい週末を過ごし続けることができていたよ。

