何者にもなれなかったけど何かを諦めきれないおっさんという存在
去年末で35歳になった。今年36歳になる。
もうこれは、どうあがいたところでまごうことなきおっさんだ。
おっさんの定義ってなんだろう?とか色々考えてさんざん駄々を捏ねたが、まぁなにわともあれ35歳は間違いなくおっさんだろう。という結論になった。
ココ最近のエントリーを読んだという非常に趣味の悪い読者の方はお気づきかと思うが35歳を迎えた直後くらいからここ数ヶ月完全に精神をおかしくしてしまっていた。特に旧正月に訪れたネパールで完全にこじらせてしまってからのここ2ヶ月くらいは本当に辛かった。
原因としては色々と思い当たるフシはあるのだけど人生は常に内から外から色々な要素が複雑に絡み合って事象を構成するので原因が一つの物事に帰結してそれを排除すれば良いというほどの簡単なものではないと思うし、そもそも頭がグルグルと回ってとりとめのない思考がギャンギャンと音を立てて行ったりきたりするだけで何か解決するための努力をする気力すら湧いてこず世界の底へ底へとただ無気力に落ちていく自分を眺めていることしかできないでいた。
人生っていうのは舗装されていたりアップダウンが激しい野良道だったりといろんな道を進んで行って、時々深い/浅い、広い/狭い いろんな谷にはられた橋を選んで渡って進み続けるようなものなんじゃないかと最近思っていて、時にはもう小学3年生の男子が図画工作の授業で勢いで作ったような明らかに強度が足りないちんちくりんな吊橋に歩を進めてしまう、進めざるを得ないときもある。
そして、長い長い途方もなく長い吊橋に恐る恐る足を進めたところで突然強い横風が吹いてグラグラと大きく揺れ、縄がちぎれかけ、そのへんのものを掴むのが精一杯で前にも後ろにも進めなくなることもある。
そして、ときにはある日突然それはちぎれて落ちてしまうこともある。
落ちてしまえば、運が良ければ別の橋やロープ・枝なんかに引っかかって致命傷を受けたり受けなかったりしながらもなんとか生きながらえたり。とそういうことがおきる。
そして、場合によっては死ぬ。
人生が長い旅路なのだとしたらその道中でどんな道と橋を選んでどんな結果がまっていたとしてもそれは最終的には自分で選択して歩みを進めるしかできない。
色んな人がいろんなことを言うが、奴らはその結果に対して責任なんてとってはくれない。
地方議員が地元への賄賂代わりに公金を投入して作ったような立派なコンクリートと鉄筋で作られた大きな橋だけを選んで舗装された国道を歩き続ける事もできる。
もちろん立派な国道に架けられた立派な橋はとても安心だ。でも、日々のストレスにやられてストロングゼロを飲んだおっさんが運転するトラックに轢かれて死ぬこともあるからせいぜい背後には気をつけてろよ。
僕は本当に何も考えていなくて、
気がついたらこの歳で結婚もせず、長らく恋人もいない状態で東南アジアの端っこで目立たないようにほそぼそと生きていた。それが今だ。
一所懸命に何かに打ち込んで生きてきたのかと問われれば自信を持って「そうだ」とは答えられない人生を歩んできた。
流れ流されふわふわとしたまま思考を止めて多くの人が若い頃に身を投じていた努力をせず、流れに身を任せて生きていた現在の結果が今なのだ。
気がつけば国道から大きく離れた深い山の中の獣道を昼夜なくテクテクと独り重い足を引きずって歩いていた。
結果としての今なら甘んじて受け入れることしかできないが、じゃぁ今お前は不幸なのかと問われれば周りにいるたくさんの人とたくさんの音楽に救われている今の暮らしを口が裂けても「俺は不幸だ」なんて言葉で否定することはできない。
最近また、Eastern Youthをよく聴いている。
昔から彼らの歌が好きで聴いていたのだけどいつの間にかあまり聞かなくなっていた。
最近救いを求めて色んな音楽を漁っているときに2017年に出たSONGentoJIYUというアルバムにたどり着いた。このアルバムは完全に僕らのような”生きづらいおっさん”を救うアルバムだと思う。
生まれてこのかたずっと抱えてきた”生きづらさ”が瞬間的に天井を打って死にかけていたここ数ヶ月の自分を救ってくれたのはこのアルバムだった。表題曲の”ソンゲントジユウ”という曲に救われたのだ。今も毎日10回づつくらい聴いている。
そうさ、俺は俺
ソンゲントジユウ/ Eastern Youth
握りしめた生存の実感を
誰かの手に委ねちゃいけねぇんだ
誰かの手に渡しちゃいけねぇんだ
どう転んだって俺は俺 どんなときだって俺は俺さ
昔から世界観が大きく変わったわけではなく、より深み・渋みを増している。
ぜひこのOTOTOYのインタビューを読んでほしい。吉野寿は僕らが勝手に思っているだけで実は代弁者なんかじゃないのかもしれない、でも僕ら”生きづらいおっさん”を結果的に救っているのは確かなのだ。
このインタビューはもう、アルバムの世界観そのものの中にありパンチラインの応酬で引用をする手が止まらない。
eastern youth、最強伝説継続中! ──生存の実感は誰かの手に委ねちゃいけねえんだ
https://ototoy.jp/feature/20170927
時間が経つに連れていろんなことが変わるだろうし、それを恐れてもはじまらない。変わるように変わればいい。いまを一生懸命に生きてる。先のことはわからんですよ。希望とか夢はない。
https://ototoy.jp/feature/20170927
絵かきにも、物書きにもなれなかったし、そんな大層なミュージシャンにはなれてませんけど、ギターはぶっ叩けば鳴りますからね。
https://ototoy.jp/feature/20170927
ちなみに一つ前のアルバム “Bottom of the World”の「街の底」も同じ世界感の延長線上にある、大変な名曲である。
人間は自分を肯定をしていかなければ生きていくのがただただ辛くなっていく。
色々な要因が重なって自分を自分として受け入れるプロセスに失敗したまま大人になってしまった僕たちは年を取るごとに日々肯定感が失われていく中、必死で他人に媚びへつらって肯定をしてもらうことでなんとか尊厳を維持しようとするが、そんな大事なもんを他人に委ねちゃいけないんだ。
いくら辛くて苦しくて大変でも自分で自分を受け入れてあげながら生きてゆくしかない。開き直るしかないのだ。
この世は基本的に地獄なのでおっさんがそんなふうに必死にあがいてる様を見て冷笑する奴らがたくさんいる。しかしそんな性根の腐りきった奴らははそのうち自分が放った呪いにやられて死ぬより辛い人生がまっていて、最終的にはストロングゼロだかブロンだかなんかの飲みすぎで死ぬのだから放っておけばよい。
しかし、そう言いながらもおっさんは逆説的にナイーブなのでいちいち傷ついてしまうし時にはもう傷つくことが怖くなって何もできなくなってしまうのだ。
僕達みたいないわゆるモテなくて・金のない・キモいおっさんと成り果てた”どうしようもない奴”の多くは思春期に抱え込んだ生きづらさを解消することがでないまま、納得できないなにかに目をつぶってやり過ごすことができないまま、何者にもなれないでいるおっさんなのだ。
願わくば、常に優しくしてくれ、心の底から受け入れてくれ、存在をまるごと愛してくれ、なんて大仰なことは望まないから、ただそこにいて必死に生きているだけの人に石を投げつけるようなことがない世界であってほしい。