1. 言葉と文化について考えたこと

1. 言葉と文化について考えたこと

久しぶりに”ブログ”というものを書いて見ようと思って、管理画面を開いてみた。

日本語の長文が書けなくなってきてる。なんでかな?と思うんだけど理由はよくわからない。
そもそもなんでいきなりこんな久しぶりに書こうと思ったかというとちょうどサイゴンへ来て3年という割と長い歳月を過ごしたことに気がついたから。
脈略もなく、ただこの3年という月日をサイゴンで過ごした今、思うことを何日かに分けてただダラダラと書いてみよう。

言葉と文化について考えたこと

3年も日本を離れてサイゴンで生活しているくせに、未だにベトナム語も英語もペラペラとしゃべることができないしネイティブ・スピーカーは本当に何を言っているのか聞き取れないまま。まぁ特に学校にかよったりはしていないんだけどありがたいことにそれでもいろいろな国から来た人と友達になったり話したりする機会も多くて”外国語”というものへの抵抗感は本当に薄くなった。

ベトナム人の英語は訛っていて聞き取れない。とよく聴いていたけど20代前半のサイゴンの若者やその辺の子どもたち、エリート層は当たり前に綺麗な英語を喋るし東京とサイゴンで比べれば英語話者率はサイゴンのほうが圧倒的に高いと思う。
とくにサイゴンという都市部にて暮らしているからかもしれないが、特にエリートとはいえないクラブとかで知り合った若者たち(saigoneseと呼ばれる、遊び慣れた都会っ子達)でも本当に皆ちゃんとした発音で英語をしゃべるし、その辺の小さな商店の子供が英語が通じない母親に変わって英語で通訳してくれたりする。スラングとかも使いこなしてる。
だから、ろくな英語もしゃべれない日本人が「ベトナム人の英語は〜(笑)」とか話しているのを聞くと本当に恥ずかしくなる。

僕も含めて、なぜ日本人の英語教育がここまで遅れてしまっているんだろう?とか意識の高いこともたまに考えることはあるけど、最近たまに出張で日本へ行くと本当に外国人が増えたな、と思う。
中国人やベトナム人、その他東・東南アジアの人も増えたけど欧米人も随分増えたな、と思う。

多分今の若い子たちに取って僕らの若いころと違って東京は外国人がいっぱいいて当たり前になるだろうし、そこら辺で英語を喋る人を見るようになる。
そうなれば英語への抵抗感は薄くなっていくんじゃないかな、と思ってる。
そうなればもう一気に若者は英語をしゃべるようになるだろうな、と思う。政策とか教育方針以上に環境が大事なんだろう。
サイゴンには旅行者や在住者の外国人が溢れていてそこら中にいる。英語に対する恐怖心なんて皆日本人ほど持ってない。下手くそな英語でもがんがんコミュニケーションを取ってくるしとれば取るほど皆ボキャブラリーが増えていく
俺たちおっさん世代は取り残されないように頑張ろうな。

ベトナムは1年2年の単位で、指数関数的な伸び率で環境がめまぐるしく変わっていくからか30歳と25歳と20歳でまるで全く違う人種のように感じることがよくある。
更にこれは都市部と地方での差も同じように大きなずれ方をする。それが非常に面白い。
自分が付き合っている偏ったサンプルを元にベトナムを語ると(そんな文章死ぬほどシェアされてるけどな)変な方向に偏った結論を出しがちなので気をつけたい。

日本は50年という脅威的なスピードで経済成長したってよく聞くけど、時代っていうのは常に一瞬前の倍くらいのスピードで変わっていく。
今の新興国の変化スピードは日本の比じゃないのではないかな、そもそも変化っていうのは一本ではなく複雑に絡み合ってパラレルに伸びていくから、下手に言葉にして比較しているとどんどん感覚がズレるな、とよく感じる。(”◯年前の日本に似ている”ってよくいわれるけど一部ではそうだし一部では既に日本よりも先に進んでいたりする)

そういう背景を持った上で聞いたり見たりするベトナム語は(未だに全然発音だめだし喋れないんだけど)本当に面白い。
ベトナム語はベトナム古来からの言葉に中国語が入ってきてボキャブラリーを劇的に増やし、更にフランス統治時代にフランス語が入ってきてる。もちろん英語や日本語などの外来語もどんどん生まれ続けてる。

特にフランス統治時代に生まれたもの(食べ物や電車のような文明)はフランス発音をそのままベトナム語に持ってきているものがある。

中国語からの言葉が多いので日本語と大体同じ発音する単語が多いのは有名だけど、初めて聞いたり見たりした単語がなんとなく引っかかった時は調べてみると面白い。

例えば、卵はtrứng、ゆでたまごはtrứng luộc(茹でる)、卵焼きはtrứng chiên(揚げる、炒める)と割りと単純なのに目玉焼きになるとtrứng ốp laとか言い出す。ốp laってなんだよ。って思って調べてみるとフランス語で目玉焼きはoeufs au platだったりする。(oeufsが卵という意味) おそらく目玉焼きは元々名前がなくてフランス統治時代に広まったのかな?と想像が働く。

こちらには6種の声調と11種の母音がある、ローマ字に声調記号をつけて使い分けるんだけど英語って声調記号や母音記号がついてないからイントネーションのない発音(さらに”tr”の発音が”ch”だったり、末子音を内破音のみとするみたいなののせいで英語の発音が変になる人が多いっていうのがベトナム人の英語は…の要因なんだけど)をしがちなんだけど 最近の若い人はそこに違和感を持っているようでFacebookとかを見ると英語そのままで書くことがもちろん多いけど、時々日本でいうカタカナのような感覚なのか、ベトナム語表記で英語のイントネーションがハマるように上手いこと声調記号をつけたりして表記する人達がいる。
これもすごく面白い。声調があるからリアルな発音を表現できていて、カタカナより断然良い。

本当に言語っていうのは面白いな、と思うと同時に言語を勉強するっていうのは歴史やその国、街の文化を踏まえないと理解ができず単純理解しようとするととてつもなく難しくかなり大きな記憶容量を必要としてしまうものだな。と思った。

これを持って「英語をしゃべりたければネイティブ・スピーカーの友達を作れ」と言われていた真の意味を理解した気がした。
単語と発音、熟語を覚えるだけでは使いものにならないんだ。どんな言語でも。考え方を理解しないと。そのためにはその言語を扱う人達と時間をともにしないと理解ができない。

これは完全にこの3年で得た「なるほど」というものの一番のものだった。
だから僕はベトナム人やその他の国の人々から聞かれても、簡単に日本語を教えることができない。
答えを示すのは簡単だけど、それを暗記しても意味が無いからだ。暗記した単語での会話は心からの会話にならない。
(もちろんその人が単純にその意味を知りたいときは普通に教えるけど)

教えるのが下手だとかなんとか言われようが「日本人はなぜ、その場面でその言葉を選ぶのか」を教えたい。そしてこれをやると自分自身でも気づいていなかった日本語の面白い部分が見えてきたりする。